2026.07.01 奥会津に生きる

父の予感

菊地悦子

父母は長い間共稼ぎ夫婦であったせいか、父は昭和一桁生まれには珍しく、若いころから家のことを何でもする人だった。母が亡くなった後も、掃除洗濯簡単な炊事含め、大体において問題もない。様子を見に帰るのは、ひと月かふた月に一度。あとは毎晩の電話で安否確認というのがわたしたちのルールになった。

安定した父の暮らしも十年が過ぎ、八十の半ばを過ぎるとさすがに不安要素も増えてくる。体調を崩したり、入院であったり、そんな折りには、何を置いてもかけつける。父にわたしのスケジュールなど知らせることは一切なかったが、不思議なことに、そういった緊急要請がかかるのは、いつもまとまった仕事が終了して、そろそろ様子を見に行ってみるかなというタイミングなのだった。当時わたしは宮古島を拠点に仕事をしていたから、偶然とはいえこのことは本当にありがたかった。

ある時、実家に帰ると階段の正面にある壁が破れている。思春期男子が暴れた後のような破壊具合だ。父に聞けば、夜中に水が飲みたくなり、階段から落ちた際にぶつかったようだという。服用している入眠剤の影響なのか、記憶が曖昧なのも心配だった。父の寝室を一階に移し、いよいよわたしは実家に帰る覚悟を決めた。

少し前から、「オレも独り暮らしはそろそろ限界だぞ、あと一年くれしか生きらんに」と父は時折弱音を吐いていた。同居は時間の問題だったが、それでも目の前の父はいたって元気そうで、もうちょっと、もうちょっとと先延ばしていたのだった。年度末、仕事の整理を終えると、わたしは宮古島の家を引き払い、実家に腰を落ち着けた。いろいろやり切ったという実感と還暦が重なり、これで現役も引退と、実にさっぱりとした気分だった。一方、父は「はっから帰ってきたのかぁ」などといい、きょとんとしている。

あと一年の命と自称していた父だったが、なんのなんの元気である。夕食時には晩酌を欠かさなかったし、就寝前には少しばかりの熱燗を父娘で差しつ差されつ、ちびちび呑むのも習慣になった。燗をつけるのは父の役目で、いつもきっちり一合の酒を電子レンジで温める。小さなお盆に一合徳利とおちょこがふたつと少しのつまみ鱈を乗せ、いそいそと茶の間に運んでくる。就寝前のひととき、父は自分がこどもの頃の話を好んでしたし、わたしもまた、それを聞くのがとても楽しみだった。

昔から穏やかな父だったわけではない。若い頃は口より先に手が出たし、父の横暴さを恨んだりもした。わたしもまた反抗的な娘だったから衝突も多かったのだ。ところが、父が老い、娘も老い始めの共の暮らしには、どんな魔法がかかったのかと驚くほど優しい時間が流れていた。

父と暮らして丸五年が過ぎる三月の末、近所の人が地区の組長交代の引継ぎにやってきた。順送りで四月からわが家が担当になるという。茶の間の炬燵で眠っていた父を起こすまでもないと、ひととおりの話を聞き、引継ぎの道具などを受け取った。その後目覚めた父に報告すると血相を変える。四月までまだ一週間もあるじゃないかというのだ。その間、町内で葬式でも出たらどうするのだ、引継ぎをするのは三十一日だと、いつにもなく強くいい張る。その日のうちに、引継ぎ取り消しにやってきた近所の人に、わたしは父の強情をひたすら詫びた。

父が倒れたのは、その二日後だった。突然の脳梗塞だ。前の晩にも、寝酒の熱燗を一緒に呑んでいたというのに。父は目覚めることなく、さらに二日後、息を引き取った。三月二十九日だった。

結局、組長の順番はわが家を飛び越え、次のお宅が引き受けてくれた。あの時、引継ぎしたままであったら、わたしは大いに困ることになっただろう。

父が亡くなる少し前の晩酌時、石牟礼道子の小説を読んでいたわたしは、狐火を見たことがあるかと父に訊ねた。父は真顔になり「あのなぁ、それなぁ」と目を細める。父がこんな風に話し始めたら、まず絶対に面白い。わたしはわくわくして身を乗り出した。 「その家にはじさまとばさまと若い息子が住んでただ。ばさまは片方の足がなくて、松葉づえついて、山の中でもどこでも歩く。じさまはなんでも仕事ができる。鍛冶もやる。はさみなんか作らせたらものすごく切れんのよ。近所の人がみな頼む。修理もする」

そういって、何故だかはっとしたように口をつぐんだ。しばらくして、「いや、この話はまたにすんべ。今度ちゃんとしゃべる。今じゃねぇ」

父はその続きを語ることなく逝ってしまった。仕事ができるじさまと、足のないばさ